開発独裁のシンガポールをみて、うまく行ってない民主主義よりうまく行ってる独裁の方がその国の国民としてはマシなんじゃないかと最近思い始めている、開発独裁(Developmental Dictatorship)気になるマン、DD加藤(@flux54321)です。

 

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昨日普通に生きていたら、唐突に高校時代の修学旅行での苦い思い出を思い出したので書きたいと思います。

cegoh / Pixabay

 

第一章 修学旅行先はシンガポール!

高校時代の僕のクラスは英語科でした。中学時代から英語が好きだったからです。シンガポールでは日本で勉強した英語がついに使えるんだ、ついに役に立つ時が来るんだと希望に燃えていました。

 

すべてが最高の体験、最終日の前日までは・・・

英語に興味を持ち始めてから初の海外だったので、目に映る街・人・もの、すべてが最高の体験でした。必要もないのにまくしたて気味の英語で現地の店員さんに話しかけまくりました。

「英語が通じる!」

すべてが最高の体験だったのです。ホテルの部屋のブレーカーが落ちた時も英語でフロントに電話をかけて自力で対応。「おお〜自分の英語いけるやん!」と日々上機嫌で過ごしました。クッソ暑い気候とおいしいがツアーで決まっているワンパターンな料理を抜きにすれば、最高の体験が続きました。毎日を超ハイテンションで過ごしました。

 

魔の修学旅行最終日「現地大学生の引率によるシンガポール案内」

人生史上最高の状態でシンガポール旅行の最終日を迎えました。

最終日は現地シンガポールの大学生が僕たちを案内してくれる日でした。大学生と僕たちのグループが会い、みんなでどこに行くか話し合いました。僕たちはインド人街に行きたいと言いましたが、その大学生は中華系だったからか、なんとなく行きたく無さそうな雰囲気でした。やっぱりアウェイ感というかそういうのがあるのでしょうか。

 

インド人街には行きたくなさそうなので中国人街(?)に行き、そこで僕たちは彼にシンガポール名物の珍味(もしくはゲテモノ)の果物ドリアンを食べさせてくれと言いしました。大学生の彼は「なんでドリアンなんて食べるの?」と怪訝そうな顔をしていましたが、しぶしぶ連れて行ってくれました。ドリアンは、味は甘いけどぬか漬けのような匂いがその甘さの邪魔をしてくる不思議な食べ物でした。

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臭いことで有名なドリアン

 

第二章 見捨てられる(forsaken)

 

昼食を摂るためにショッピングモールへ。そこで事件発生。

「ついにドリアンを食べたぞ!」という達成感高まる気持ちでドリアンを後にし、昼食を摂るためにショッピングモールのフードコートに入りました。そこでついに事件発生です。

なんと大学生が忽然と姿を消してしまったのです。

突然ショッピングモールに放置され、パニックになる我々一同。しかし為す術はありません。困惑しながらもフードコートでインドネシア料理を食べました。これが中々にうまい。シンガポールの食べ物、いける!

しかしおいしい食べ物とは裏腹に、依然マズイ状況は続いていました。

なんとなく直感的に「見捨てられたのだ」との感覚が我々を支配しました。情けないやら腹立つやら不安やら様々な感情が入り混じりました。

 

「何が起こってるんだこれは・・・」

 

「外国から来た右も左も知らない高校生たちを、おそらく面倒くさくなったという理由だけで繁華街のど真ん中に放置する」というのは中々の鬼畜プレイですが、それが実際に僕たちの身に起こったことなのでした。

その後、その日最後のアクティビティである、全生徒みんな集まっての夕飯があったのですが、その夕飯のときだけタダ飯を食らいにその大学生が現れました。正直その厚かましさに辟易しました。めっちゃムカついていましたが。もう終わったこと。どうせ色々言っても仕方が無いわけです。

 

そんな感じで最終日の前日まで高まりまくっていた感情はその一件で地に落ち、失意に似た気持ちで日本へ帰りました。

前向きに言えば勉強になったとでも言うべきでしょうか。でも僕の心に与えたショックはわりかし大きかったのです。ひどい大学生に当たってしまったなと。もうシンガポールには二度とこねーよ!とまで思っていました。

 

 

受容(acceptance) -シンガポール人の友だちから話を聞く-

「受容」などと書くと、ほとんどメンタルヘルスの話みたいになるからやめろ!と思ってしまいますが、実はこの後ふとしたことがきっかけでこの惨事を心理的に受け入れることになる出来事がありました。その当時僕は大学生で英語の勉強にとSkypeで外国人の話し相手をたくさん見つけ、色んなことを日々話していました。

その中にシンガポール人の子がいました。僕たちはすぐに仲良くなり色んなことを話しました。

ある時僕はその子に「シンガポールショッピングモール内放置事件」について話しました。するとその子はこう答えました。

 

「ああw それ自分もやったわwww」

 

!?  なぬ!? この仲良くなった親日でしかも大人しそうな子が僕たちが遭ったのと同じ放置をしでかしただと!?

 

「だって言葉が通じない人とタダで何時間も一緒にいるとか辛いっしょ。

 

大人しく良識的で日本好きのシンガポール人のその子が、あの大学生と全く同じことを日本人学生にしていた・・・?

 

そっか、これがシンガポールでは「普通」なんだ・・・それが普通になっちゃうんだこの場所では・・・

 

こうして、このSkypeでの何気ない会話を通じて、僕はあの痛ましい事件を受け入れることになりました。

 

教訓

「タダでやるボランティアなんだから責任なんて持たなくて当然。」という考えも一理ある。責任という言葉一つとっても国が変われば考え方が違う。僕はこれがどっちが良いんだということは言いません。事象一つとっても、人それぞれ感じ方やそこから受けるメリット・デメリットが違うからです。

ただ、当時高校生で世間知らずだった僕にとっては「世界って教科書的な意味じゃなくて本当の意味で多様なんだなあ・・・」と痛く感じる一連の出来事ではありました。この件を受けて、一概に「みんな違ってみんな良い」とまでは言えませんが、ただ自分が今いる場所とは「違う」世界があるのだということは、人生で強烈に痛感する最初の出来事となりました。